ペーパー気象予報士のハルです。
勉強法についていろいろ考えたり本を読んだりしているうちにふと気になったことがあります。
それは「わかる」と「できる」についてです。
この2つは割とよく耳にする、学習の到達段階の違いを表す言葉だと思いますが・・・。
よく聞く「わかるとできるは違う」論
「わかる できる 違い」などとググるとたくさんのサイトにヒットします。社会人向けのブログだったり、学習塾の宣伝だったり。ざっと見てみると、基本的にどの記事も
まず「わかる」→次に「できる」。
この「わかる」と「できる」の間には少しハードルがある・・・とか、そのハードルを乗り越えるためには・・・というような論調になっていると感じます。
基本的にはこの論に私も賛同です。この種の論はだいたい、中学や高校の数学の問題を解くとか、あるいは社会人の日常的なルーチンワークについて、以下のような構造を仮定していますね。
- まず、人から説明を聞くと分かったような気になる=「わかる」
- でも、実際にそれをしようとすると意外と正しくできない=「わかってるけどできない」
- そのギャップを埋めるために練習などをする=「できるようになる」
確かにこれは大いに一理ありますし、これが正しく当てはまるケースは多いと思います。
ですが最近ふと、この逆(?)のケースが実は結構あるんじゃないかと思うようになりました。
「できているのにわかってない」という状態
「できているのにわかってない」ということがあるのでしょうか?上に書いた「わかる→練習など→できる」というプロセスを仮定すれば、そのようなことは起こり得ないはずですが。
しかし皆さん思い出してみてください。あるいはもし中高生の方がこの記事を読んでいるなら、日々の学習シーンを思い浮かべてください。例えば数学の問題を解くときに「答えを見て真似をしたら解けた」ということはないでしょうか?それを繰り返しているうちに「なんかよく分からないけど、問題に対しては正答を出せるようになった」という経験はありませんか?
自分自身のことはよく覚えていないのですが、先日後輩(20代)と話しているときにそんな話題になりました。その後輩は学校の宿題が出たら基本的にはどんどん答えを見て、遠慮なく書き写して提出していたそうなのです(良い子はマネしてはいけませんね)。その調子で定期テスト前にも「問題を読む→答えを見る→理解したと思う→書き写す」というようなことをしていたそうなのです。
そうすると定期テストの問題は解けたそうなんですね。ただ、模試になると成績がグッと下がったそうです。まあ後輩氏は推薦入試で大学に入ったそうなので、定期テストの点を活かして進学したと言えるのでしょうけど、私が言いたいのは次のようなことです。
「問題が解けていても、分かっているとは限らないんじゃないか」
この後輩氏は、恐らく「答を見た問題と同じ問題」「数字だけちょっと変わった問題」なら正答を出せるのだと思います。ですが「本質は同じだけど見かけが全然違う問題」には手も足も出ないのではないかと思います。模試の成績がいつも悪かったというのがその証拠ではないでしょうか?
この状態を自覚するのは難しい
まあテストの点を取るために勉強するのだと考えれば、分かっていようがいまいがテストの点が取れればいい、という考えはありでしょう。
ただ、上にも述べたように、テストと言ってもいろいろあり「定期テストでは点が取れるけど模試では取れない」というようなこともあるわけです。社会人の仕事で言えば、「平時のルーチンワークはこなせるけど、少しでもイレギュラーが発生するとフリーズしてしまう」ということもあるでしょう。実は後輩氏はちょっとそういう傾向があります(例えばお客様からの不意の質問に固まってしまう / 適当な返答をしてしまうなど)。
ですから私が思うには、やはり「見かけ上同じ問題を解ければよい」ということではなく、「見かけが違っても本質的に同じ問題が解ける」ということの方に価値があると感じます。
ですが、この「答えをすぐ見る習慣のある人」って、何となく「答えが出る=分かっている」と錯覚しているような気がするんですよ。だって、なぜ答えを書き写すかというと「答えが書けていればいいと思っているから」ですよね。自分が内容を理解して答えを生み出すという意味をあまり感じないからこそ、答えを写しても平気なわけでしょ。
そうだとすると、いくら周囲の人が「キミはわかってない、もっとちゃんと勉強しなさい」とアドバイスしたとしても、「何言ってんのwww俺はちゃんと答えを出せますよ(=分かってますよ)」という風に思ってしまうわけです。その人の中では、答えが出さえすれば分かったことになってるわけだから。
で、そういう人に限って「基礎はできるが、応用ができない」と自己分析したりするんですよね(すいません、ちょっと後輩氏へのdisりが混じっているかもしれません)。私から見ると、「基礎ができてないから応用もクソもあるか」と思えるのですが。
この精神構造の闇は深いなぁと思います。
たぶん、昔からある「数学の問題が分からなかったら答えを見るべきか考えるべきか」という論争も、似たようなところに根っこがあるような気がします。また考えがまとまったら記事にしてみたいと思います。
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